人間の美しいところは「自分のために頑張っているはずなのに、結果的に誰かのためになっているということ。」だと思うから。
野球が好きだということを公言しており、野球関連の記事を多くUPしてきた小生にとって、この記事に同意することは少々勇気がいる。
しかし、表現方法の直情的な部分に目をつぶれば大いに同意できる内容である。
なぜ、我々が野球選手に、サッカー選手に、アーティストに、あるいは仕事や学業においても身近な仲間に、先輩に、後輩に、感銘を受けるのか。
それは、「誰かのために頑張っている。」という押し付けがましい努力なんかではない。
あくまで「自分が楽しむため、達成感を得るため、幸せになるため」に行っていることのはずなのに「誰かが楽しんでくれて、感動してくれて、幸せになってくれる」ことが要因であるはずだ。
筆者が例に挙げている高校野球の件にしても、「自分のための頑張り」が結果的に「東北の人、観ている人、周りのチームメイト」のためになっているという結果なんだと思う。
人間は、誰かの為に頑張ることができるほど強い存在でも綺麗な存在でもない。
しかしながら、自分の身を削って、削って、削った結果が「自分のため」を超えて「誰かのため」になってしまう。
だからこそ、人間は他者の心をも動かし、他者の振る舞いによって心を動かされるのだ。
このような自分の考え方について、別の言葉で具体例を持って表現していた記事に親近感を持ったので紹介させていただいた。