ダンサー・イン・ザ・ダークにおけるセルマの生き方に見る救い
こんばんは。
ひまざぶです。
普段、映画を観る方ではありません。
しかし、ひょんなきっかけで「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観ました。
映画評をかける知識はないので感じたことを書いてみたいと思います。
内容としては、「欝になる」「暗い」と評されることが多いようです。
主人公のセルマ (演じるのはビョーク) は極度の弱視で失明しかかっています。
そんな彼女の弱視は息子であるジーンにも遺伝しており13歳までに手術しないと失明してしまいます。
手術代を稼ぐために、工場で失明しかかった状態で必死に働くセルマ。
やっとの思いで貯めた手術代を信頼する人物の一人であるビルに盗まれて
しまい・・・
あらすじはこんなもんで、感じたことを書いてみます。
①セルマは自分の身に降りかかる不幸は覚悟の上
とても強い人なんですね。
失明しそうということも「もう、遺伝だし分かってたわ。」という感じですし
それによって工場の仕事で不便な思いをしたり、危険な目にあっても
笑顔で乗り切ってしまう強さがあります。
その強さに心を打たれました。
②息子のジーンへの責任
息子のジーンに自分の弱視が遺伝することを分かっていながら産むことを決めた。
そのことに強く責任を感じているようです。
③ジーンの障害を取り除くことが宿命であり目的
ジーンの障害を取り除いてあげることはセルマの人生そのものです。
目の障害はもちろん、心理的負担を取り除くことも意味しています。
だから、目の手術のために自分が苦労していることを悟られたくなかったのではない でしょうか。
そして、失明仕掛けている自分自身の存在をも障害と捉えている節もあります。
刑務所で面会や手紙を拒否したり、死刑執行時の覚悟に現れています。
④セルマは嘘をついていない。
セルマは、少なくとも作中に描かれている中で嘘をついていません。
裏切られた相手であるビルとの秘密すらも守ってしまう不器用さもそのような部分に 現れています。
生き方が下手だからこそ、不運を招いてしまっているところもありそうですね。
「嘘、ついてるじゃん。」と思われそうですが、私の解釈では嘘はありません。
セルマは潔く生きています。
⑤空想の中にすら嘘、虚構がない。
セルマが不運、不幸を乗り切る手段として空想をします。
その空想は全てミュージカルシーンで描かれています。
セルマは空想の中にすら、嘘や虚構がありません。
ビルを死なせてしまった後の空想もそうです。
「ビルやリンダ、ジェーンも事実を知ったら許してくれるであろう。
受け入れてくれるであろう。」
彼女なりに考えうるみんなの心がどう動くかのひとパターンを描いたという
感覚です。
それは決して嘘ではないし虚でもないと思います。
⑥ノヴィの意味
「ノヴィ」に込められた意味も何となく刺さる部分があります。
「ノヴィ」と名乗らせることによって「ノヴィ (祖国の父) のためにお金を
貯めている 」ことを嘘にしないため、ジェーンの心に負担をかけないため
なのでは?
そして、チェコ出身であるというささやかな誇りかもしれません。
「チェコからアメリカまでやってきている」という覚悟も背負っているのでしょう。
⑦処刑前のセルマの発狂はジーンを思ってのもの
セルマは処刑前に発狂します。
これは、自分の命が失われる恐怖ではないと思われます。
ジーンの手術が成功したのかを知りえないことへの恐怖なのではないでしょうか。
セルマが自分の命を惜しんでいるとはどうも思えないのです。
自分がジーンと違う世界に逝く前に手術の結果を知りたい。
彼が幸せになったのかを知りたい。
自分の役目を果たせたのかを知りたい。
そういう叫びだったのではないでしょうか。
⑧ラストシーンはセルマの人生が成就した象徴
セルマは最後の最後にジーンの手術成功を悟ります。
そして最期の歌を歌いこの世を去ります。
「私の役目は終わった。次の歌はジーンに歌われるに違いない。」
彼女の人生は役割を果たし、終わった。
そこに向かい風の連続だった彼女の人生に救いがあるのかもしれません。
私は、このような解釈をしました。
観る人によって解釈が別れそうです。
欝になるということもなく、セルマの覚悟、一貫性、潔さ、綺麗さの全てに刺された
感覚です。
だから、ラストに彼女の処刑で終わったことも「目的を果たすための必然」だった
わけなので寧ろスッキリと受け入れました。
最後の障害である「失明した自分」をジーンの人生から取り去ることができたわけ
だから・・・。
心に刺さる映画なので、またすぐに観返してみようとは思いません。
1回で理解できない映画でもあると思うので、しかるべきタイミングで観てみたい
ですね。